朝日観音縁起
当山は奈良時代の養老元年(717)、越の大徳(こしのだいとこ=越前国の高僧)泰澄大師により開かれたお寺です。
言い伝えによれば、泰澄大師がこのあたりを巡錫(仏の教えを広め人々を救う修行をすること)していたところ、山に怪しい雲がただよい、ただならぬ気配が村をつつんでいるのに気がつかれました。村人にそのわけを聞けば、こ山に魔神が棲み、人々を苦しめているとのこと。村人は泰澄大師に神のたたりを鎮めてくれるように哀願しました。泰澄大師は村人の願いを聞きいれ、魔障うずまく山中に籠り、衆生済度(人々を救う)の仏である観音菩薩に祈りを捧げました。一心不乱に祈る事二十一日目、ついに悪魔は失せました。魔神が棲んでいた山中には大きな楠(クスノキ)の大木が立ち、それが光を放ったので、泰澄大師はこれこそ霊木であると歓喜し、一刀三礼しながらこの霊木から仏像を刻み、無病息災のために正観世音菩薩を、災難厄除のために千手観世音菩薩を、そして五穀豊穣・万民快楽のために稲荷・八幡の両鎮守神を作られたのでした。
そしてこの観音像の開眼供養(仏像に魂を入れる儀式)の時、観音像の額の白毫から朝日のように光が射したので、この観音さまを「朝日観音」と呼ぶようになったということです。以来この観音さまは「朝日のお観音さん」として人々に親しまれ、篤く信仰され続けています。
紙芝居「朝日の観音さま」より
泰澄大師の足跡
当山をお開きになった泰澄大師は、白鳳十一年(682)越前国麻生津(福井市三十八社町)に誕生されました。生まれながらにして仏法に深く帰依されていた大師は、観音菩薩の霊夢に導かれて越知山に入り、厳しい修行の末に大いなる霊験を示され、「越の大徳」と呼ばれるようになります。大師は諸国を巡錫し、養老元年(717)には日本三霊山の一つである白山をお開きになりました。また病気治癒を施したのをはじめ、橋を架け、道をつくり、産業を興し、温泉を見出すなど人々のためにあらゆる方面で活躍されました。
養老六年(722)には勅命によって都に上り、元正天皇に加持祈祷を行ってご病気を治癒し、その功績により禅師(神融禅師と号す)の位を授けられました。さらに天平九年(736)には疱瘡の流行を十一面法を修して終息させ、大和尚(泰澄大和尚と号す)の位を授けられました。越前をはじめ全国にその足跡を残された大師は、神護景雲元年(767)、越知山大谷の仙窟で入定されました。
これら泰澄大師の生涯については、金沢文庫に最古の写本がのこる『泰澄和尚伝記』に記載されているほか、全国各地で寺社縁起・霊験譚として語り継がれています。その数は行基菩薩や弘法大師などの諸大徳とも肩を並べるほどで、泰澄大師がいかに偉大な行者であったかを物語るものといえます。最近では哲学者梅原猛氏が泰澄大師を「神仏習合思想の先駆者・木彫仏の創始者」として高く評価しています。
朝日観音の変遷
奈良時代に開かれたとされる朝日観音ですが、古文書等は全く焼亡・散逸してしまい、その歴史を物語れる史料は多くありません。数少ない中世以前の記録として東寺百合文書の中に「越前国 内郡 朝日寺」と見え、中世以前は「朝日寺」と号していたようです。
残された仏像からは、往時の「朝日寺」が堂塔伽藍を列ねた大寺院であったことを想像できます。特に本尊正観世音菩薩は、地方には稀な都ぶりのする長等身観音像であり、これほどの仏像を作らせることのできた寺院基盤がどのようなものであったのか大変興味深いところです。中世に大いに興隆したであろう朝日寺でしたが、戦国末期には織田信長の越前侵攻に端を発する動乱により、一向一揆の焼き打ちに遭い(『朝倉始末記』に一向一揆が焼き打ちをした寺として「朝日の観音」が挙げられています)、伽藍は焼亡、寺宝は散逸し、著しい衰退の時を迎えます。この時期、越前の多くの密教寺院は同じように退転していきました。越前地域の中世以前の古文書や仏教美術があまり多く遺っていない理由はここにあります。
しかし、当山には最も大切な観音像が残り、江戸時代以降も村の「観音堂」として地域の人々に支えられ、その信仰は守り継がれていきました。また越前国三十三観音第三〇番札所となり国中から広く信仰を集めるようになりました。
近代以降、徐々に伽藍の整備が進み、昭和57年には宝形造りの観音堂(本堂)、二重塔の千手堂が再建されました。いまでは地元の人々はもちろんのこと、北陸三十三観音第九番札所として遠方からも参詣者が絶えず、観音さまの威光はいよいよ高まるばかりです。